正倉院文書調査

一九九四年一一月五〜九日、宮内庁正倉院事務所(奈良市雑司町)に出張し、同所保存課において正倉院古文書の原本調査を行った。今年度の調査は、『正倉院文書目録品・続修別集(一九九八年度刊行予定)編纂のために出願して許可されたものである。正倉院文書閲覧の許可を与えられた宮内庁・同正倉院事務所に謝意を表する。なお、正倉院事務所保存課資料調査室主任研究官杉本一樹氏には、一九九四年度後期の本所非常勤講師として、続修別集及び塵芥について教示を受けた。
 今回の調査で、長大な継文の復原を試みた奉写後執経所奉請文継文の復原試案について、次に報告する。
【奉写御執経所奉請文継文】
 今年度、筆者が調査した続修別集三・四・六には、奉写御執経所の一切経書写勘経事業に伴う奉請文が数点含まれていた。調査において、それら文書の相互の接続を検討する過程で、奉写御執経所奉請文継文の復原試案を考えた。膨大な帳簿なので、未調査の部分が多いが、今後の調査・研究の素材として紹介する。
1 奉写御執経事業と奉請文継文
1・1 奉写御執経所の写経事業の概要
 奉写御執経所・奉写一切経司による景雲経の書写・勘経事業については栄原永遠男「内裏における勘経事業」(門脇禎二編『日本古代国家の展開』下、思文閣出版、一九九五年一一月)が新しい見解を提出している。それに従い、景雲一切経書写勘経事業を概観すれば、
  1 天平宝字六年(七六二)六月頃に孝謙上皇の周辺で勘経事業が開始された。
  2 天平宝字六年十二月頃、奉写御執経所ができ勘経用写本の奉請事務を行うようになった。
  3 天平神護元年(七六五)三〜五月頃から奉写御執経所が勘経を行うようになった。
  4 神護景雲元年九月頃に奉写御執経所が奉写一切経司に改組され一切経勘経書写が進行する。この一切経は、景雲一切経として著名であり、神護景雲二年(七六八)五月一三日に願文が撰せられた。
1・2 二つの文書群
1・2・1 奉写御執経所関係文書群と奉写一切経司関係文書群
 正倉院文書中に残された景雲一切経に関しては、大別して天平宝字六年(七六二)末から天平神護三年(七六七)七月までの時期の文書(文書群A。続修別集四、続々修十七ノ四、続々修十七ノ六の三つの継文を中核とする)と、天平神護三年(神護景雲元年)九月から神護景雲三年七月までの時期の文書(文書群B。断簡化した継文を復元した続々修十七ノ七、継文として残る続々修十七ノ八からなる)との二つの文書群があることがわかる。前者の文書群は内裏での勘経写経事業の主体が奉写御執経所、後者の文書群の事業主体はそれが発展した奉写一切経司である。後者は宝亀二年(七七一)閏三月に端裏書(後述)が付されている。後者の特徴は、継目裏に上馬養の封「養」が加えられ継文をなしていることであり、継文の編集を行い保管したのは造東大寺司写経所の案主の上馬養であったことがわかる。文書群Aの文書整理も恐らく上馬養によるものであろう。
 現在、これらの文書群については、次の二つの往来軸が残されている。往来軸 a(中倉、題籤軸七号)には「奉請一切経/御執経」、往来軸 b(続々修十七ノ七左端)には「奉請一切経/御執経所下巻」と書されている。問題は、この二つの往来軸と二つの文書群との関係である。往来軸bは現に文書群B(継文B)の冒頭である続々修十七ノ七の左端に取り付けられている。しかし、継文Bは奉写一切経司の時期のものであり、往来軸bは「御執経所」とあり事業機関の名称と合わない。とすると、文書群Aが二つに分割されて、往来軸aと往来軸bがそれぞれの左端(年月日が最も古い文書の左端)に取り付けられていた可能性、すなわち往来軸bは、元来は続々修十七ノ七の左端に取り付けられていたのではなく、そこに取り付けられたのは続々修などの編成の際であるという可能性も検討しなければならなくなる。この可能性については栄原永遠男氏の教示を得た。なお、栄原前掲論文では、文書群Aが三つの継文に別れることを指摘されている(栄原氏に教示を受けたところによれば、文書群Aの中の奉写御執経所返抄(続々修十七ノ五�、�、�)が他の奉写御執経所奉請文継文類とは別に保管されていた可能性も検討すべきとのことである)。
 ところで、この、往来軸bが継文Bのものではなく文書群Aのうちの例えば続々修十七ノ六の左端などに本来は取り付けられていたのではないかというような推測の障害となるのは、次のような事実である。
 続々修十七ノ六は、(1)と(2)とが貼り継がれており、(2)から(1)にかけての間隔三〇�前後(右方で間隔三五�前後、左方で間隔三〇�前後)の天辺のシミ痕がある。それらのシミから、続々修十七ノ六はさらに左方に料紙が貼り継がれており、継文全体では、続々修十七ノ六(1)右端で直径一〇�以上の特殊に太い巻子であったこと、すなわち現状の続々修十七ノ六の左の巻き芯の側に多数の文書が貼り継がれていたことが分かる。実際に続々修十七ノ六(2)左端には続々修十七ノ五�が貼り継がれていた可能性が強い。また、続々修十七ノ六(1)の右端には続々修十七ノ五�、その右端には続修別集三�と続くことが、剥がし取り痕やシミ痕から確認される。
 したがってこの太い巻子をなす継文は、続々修十七ノ六から続々修十七ノ四あるいは続修別集四までの七〇以上の紙を継いだ一巻のものである可能性がある。この場合、往来軸aが文書群A(文書群Aは継文Aをなすことになる)の左端に取り付けられ、その中での巻の分割はなかったことになる。そして、往来軸bが、文書群Aの中のいずれかの文書の左端に取り付けられていたものではなく、現状のように継文Bの左端に取り付けられていた可能性を検討しなければならなくなる。この場合、文書の貼り継ぎがはじまった直後に内裏内の官司が奉写一切経司に改組されたにもかかわらず、上馬養は旧官司名の「御執経所」と記した往来軸を使用し続けたことになるという事実をどのように解釈すべきかという問題が生じる。
 以上述べたような、文書群A・文書群B・往来軸a・往来軸bについては、常に次の二つの可能性を考慮しておかねばならない。
  � 往来軸aが文書群A(継文A)の左端、往来軸bが継文Bの左端に取り付けられていた。
  � 往来軸aと往来軸bは、共に文書群Aを構成する複数の継文のうちの二つの継文に使用されていた。往来軸bが続々修十七ノ七左端に取り付けられている状態は続々修などの編成過程での誤った作業の結果である。
 したがって、調査においては、文章群Aの文書や継文がそれぞれ相互に接続する可能性を考慮して一つ一つの料紙継ぎ目を観察する必要がある。これが、今後の調査課題である。
 そこで、本稿では、�の可能性を検討するための作業仮説として、文書群Aが一つの継文をなしていたとすれば、どのような構成であったかを、「奉写御執経所奉請継文」接続復原第一次試案として提示し、現在の接続調査の状況を示すことにしたい。なお調査者は、今後の調査で、この試案が誤りであり�の可能性が実証されることも当然考慮していることを述べておきたい。
 文書群Aが一巻であったとしても二巻あるいは三巻であったとしても、現在、続々修十七ノ四には入っていない多数の奉写御執経所関係の往復文書は、本来の継文では一巻あるいは二巻の継文の中にあったもので、正倉院文書編成の際に、取り外されたり、分離された可能性が強い。一九九五年度の調査では、続々修十七ノ四第三三紙までざっと観察したにとどまるが、文書が入りそうな貼り継ぎ部分には、多くの場合、継ぎ直しが見られることがわかった。今後、復原試案を検証する作業により、継文がどのような内容であったのか検討していく必要がある。その結果、継文の復原試案がまちがいであったことがわかる可能性もある。しかし、このような予見をもってそれを事実で検証していくことが必要であるとの認識に基づいて、試案を提示した次第である。
1・2・2 続々修十七ノ七、続々修十七ノ八
 続々修十七ノ七には神護景雲元年九月二十六日(十七ノ七十八—一一〇)から神護景雲二年九月二十六日までの文書(内裏内の奉写一切経司から造東大寺司に送られてきた文書、造東大寺司から奉写一切経司に送られた文書の案)が左から右に順次貼り継がれている。中間に継文から離脱した断簡が若干ある。
 続々修十七ノ八には神護景雲二年十一月十日(十七ノ一一七—一四二)から神護景雲三年七月二十日までの文書(内容は続々修十七ノ七と同様)が左から右に順次貼り継がれている。
 続々修十七ノ七と続々修十七ノ八とは元来一巻で、続々修十七ノ七が左半部、続々修十七ノ八が右半部である。続々修十七ノ七の左端に題籤「奉請一切経/御執経所下巻」(現在、十六ノ四三五に収載は誤り)が付されている。続々修十七ノ八の右端には端裏書「閏三月□日封馬」(宝亀二年)が記されている。文書と文書の継目には「養」(上馬養)の継目裏封が記されている。この継文は、紙背に左のような一次文書があり、継文Aの時期の文書も利用されている。
  �(7)裏 造東大寺司移?断簡(十七ノ一四五)
  �(6)裏 天平宝字七年十二月二十九日東大寺奉写経所奉請文(案)(十六ノ四二七—四二八7)
         天平宝字八年三月二十三日東大寺奉写経所奉請文(案)(十六ノ四二八8—11)
  �(4)裏 天平宝字八年東大寺奉写経所本経論奉請并借充帳(十六ノ四三三—四三四)(三月九日ヨリ五月二十七日マデ、前後欠)
1・2・3 続修別集四
 一三通の断簡(文書)が、左から右に日付順に貼り継がれている。各断簡の左右に、それぞれ現在の継目とは異なる剥がし取り痕がある。これらの断簡の継目剥がし取り痕は、文書整理の過程で、別の継文から現在の継文に移されたり、継文の中で貼り継ぎ順など改められたりしたことがあったことを示している。この問題を解明するには、継文A全体の詳細な観察が必要であるが、それは今後の調査の課題である。
1・4 続々修四十一ノ七
 続々修四十一ノ七の表は、天平宝字六年閏十二月二十九日雇人功給歴名帳(十六ノ一七八—一八五)である(右端に「雇人功給/歴名帳」「宝字六年閏十二月十九日」の往来軸あり)。これは、一次文書である奉写御執経所関係文書を含む七通の文書が貼り継がれた料紙群(現状の裏)の裏面(現状の表)を利用した文書である。現状の裏の文書は、左記の如くである。

『東京大学史料編纂所報』第30号